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野口 勲「一粒のタネからのメッセージ」

掲載誌『ザ・フナイ』2009新年号
ザ・フナイ2009新年号表紙

以下は船井メディア発行の月刊誌『ザ・フナイ』新年号「自然農業への回帰」特集用に依頼された原稿用紙30枚分のTEXT全文です。
はからずも著書『いのちの種を未来に』と、講演DVDと共に、僕がお伝えしたい「固定種とF1の話」三部作ともいうべき内容になりました。
2009年2月7日現在、掲載誌は既に「完売」となっておりますので、ここに掲載します。「固定種とF1」理解の一助になれば幸いです。


 私は、埼玉県飯能市のタネ屋です。店売りもしていますが、お客様の大半は、インターネット通販でお求めになる全国の家庭菜園や、有機栽培で直販をしている小さな農家の方たちです。扱い品目は、固定種という、自家採種すれば親と同じタネが採れる、現代では時代遅れとしか言いようのない、昔ながらの野菜のタネです。

 固定種というのは遺伝子が固定されたタネと言うことで、次に述べる一代雑種(以後F1)に比べ単一の遺伝子しか持たないので、種苗業界では「単種」と言われることもあります。要するに、大昔から人類が作り続け、タネをくり返し採り続けながら品種改良してきた野菜のタネのことです。
「なあんだ。じゃ、普通の野菜のタネのことじゃないか」と思われる方がいるかもしれません。しかし、現在スーパーなどで普通に売られている野菜のタネは、ほとんどがF1とか交配種と言われる一代限りの雑種(英語ではハイブリッド)のタネになってしまっていて、タネを採っても親と同じ野菜はできず、姿形がメチャクチャな異品種ばかりになってしまいます。タネを買った一代目だけが決められた揃いの良い野菜になるので、毎年高いタネを買わなくてはなりません。
 昭和40年頃を境にして、日本中の野菜のタネが、自家採種できず、毎年種苗会社から買うしかないF1種子に変わってしまったのです。
 見た目は同じダイコンやハクサイ、キャベツのタネで、できるのも昔と同じようなダイコンやハクサイやキャベツなのですが、実体は、ダイコンともハクサイともキャベツとも言えないものに遺伝子が変化しています。
 変化した理由の第一は、収穫物である野菜が、工業製品のように均質であらねばならないという市場の要求です。メンデルの法則で、異品種間の雑種の一代目は、両親の優性形質だけが現れるため、見た目が均一になるのです。箱に入れたダイコンの太さが8cm、長さが38cmというように、どれも規格通り揃うので、一本100円均一などで売りやすいのです。
 日本人の同じ両親の子供でも、太っちょがいたり背高ノッポがいたり小柄な体型がいたりするように、F1以前の昔のダイコンは、同じ品種でも大きさや重さがまちまちでした。そのため、昔は野菜を1貫目いくらとかいちいち秤にかけて売っていました。これでは大量流通に向かないので、工業製品のように規格が揃ったF1野菜に変わっていったのです。
 理由の第二は、生育スピードの早さです。生物は、雑種になるとヘテロシス(雑種強勢)という不思議な力が働き、それまで3ヵ月かかって成長していたダイコンが、2ヵ月で一人前になるなど短期間で成長するので、F1のタネを使うと、畑を一年間に何回転も使用でき、単位面積当たりの販売額を上げることができるのです(早く成長する反面、細胞の密度が粗くなり、柔らかく大味になる傾向もありますが)。
 F1以前の昔の野菜は、自家採種ができたので、野菜を出荷した後も数カ月タネ採り株に畑を占領されていました。F1は毎年タネを買わないといけないので、収穫が終わればすぐ畑を更新して次の野菜をまくことができます。経済効率最優先の時代に必要な技術革新であったとも言えるでしょう。
 このようにF1は、大量生産・大量消費社会の要請で生まれました。F1作りの方法は、「除雄」という雄しべを人為的に除去する方法から始まり、「自家不和合性」という近親婚を嫌がる性質を利用する技術に発展し、現在は「雄性不稔」という人間にたとえるとインポや無精子症の個体を利用する方法へと刻々変化しています。
 家庭内から漬物樽が消え、個食の時代になり、調理の時間がとれない主婦に代わって外食産業が隆盛を極める社会になった現在、野菜市場で流通する野菜の6割以上が外食産業によって購入されているそうです。外食産業にとって、規格どおりのF1野菜は機械調理に適していて作業効率がいいわけです。また、最近外食産業が、野菜産地や種苗会社に要求する理想の野菜は、「味が無く、菌体量が少なく、生ゴミの発生量が少ない野菜」なんだそうです。
「味付けは調味料を使って我々がやる。野菜になまじ味があると、レシピが狂ってしまうから困る」というわけです。こうして、ほとんどの人がまったく知らない間に、日本の野菜が、どんどん変化しているのです。

 世界最初のF1野菜はナスで、埼玉県農事試験場で、大正13年にできました。青い巾着型の埼玉青大丸茄子の雄しべを蕾の内に取り除き、埼玉で生まれ東京の市場で人気を博した真黒(しんくろ)茄子の雄しべの花粉を付けて作った一代雑種だったようです。
 明治以後に、おそらく東南アジアから入った青ナスと、日本伝統種である黒いナスでは遺伝子が遠く離れているため、ヘテロシスが強く働き、樹勢は旺盛でたくましく、たくさんの実をつけました。また、青ナスと黒ナスでは黒い色のほうが優性だったのでしょう。真っ黒で商品価値の高いナスがたくさん収穫できたので、タネをわけてもらった農家に大変喜ばれたそうです。
 埼玉農事試験場の成功を聞いて、全国各地の試験場が、特産伝統野菜のF1化に挑戦しました。大阪ではトマトのF1を作り、奈良ではスイカでF1を作りました。トマトはナス科ですからナスと同様に蕾から雄しべを除去しますが、スイカなどのウリ科植物は雄花と雌花が別なので、雄花を取り除いてから別の品種の雄花を摘んできて人工交配します。このように日本人の家庭から日本人同士で子を産ませないように父親や息子を取り除き、遠く離れた遺伝子の白人や黒人の男性を送り込んで、ヘテロシスを発現させ、たくましい子を得る方法が「除雄」です。
 ナスもトマトもスイカも一回の人工交配で数百粒のタネが採種できますから、人件費をかけても販売量が確保できます。でも、アブラナ科のハクサイやキャベツは、一回の人工交配では10粒前後のタネしか実を結びません。これでは人件費に見合う販売種子が収穫できないので、別の技術が開発されました。
それが「自家不和合性利用」です。
 アブラナ科野菜=菜の花の仲間=には、自分の花粉ではタネが実らない、近親婚を回避する性質があり、これを「自家不和合性」といいます。自分の花粉ではタネが実らなくても、別の個体(例えば同じ親から生まれた兄弟)の花粉だと、タネが実ってしまいます。
これでは日本人と白人または黒人のような決められた異品種間の雑種だけを実らせ、採種することができません。
 ありがたいことに、自家不和合性という自分の花粉を嫌がる機能が働くのは、成熟し開花した花だけでした。蕾や老化した花では、この機能が働かず、自分の花でタネをつけてしまうことがわかったのです。なら、菜の花が蕾の内に自分の花粉を付けてやれば、同一の個体を無限に増殖でき、採種したタネは全部同じ遺伝子だから、同品種間の子はできない。子ができないハクサイと、子ができないカブを作っておいて交互に畑にまけば、ハクサイとカブの雑種の販売量を確保することができる。と、いうわけです。
 ただ、この場合、ハクサイの花粉で実ったカブと、カブの花粉で実ったハクサイの、二通りのタネが畑にできてしまいます。混ざったまま売り出しては均一なF1野菜が収穫できませんから、求めるF1ハクサイのタネがカブにハクサイの花粉がかかったものだとしたら、カブの花粉がかかったハクサイのほうは、タネが成熟する前に、全部踏みつぶしてしまいます。
 実は、私の店は、父の代から採種業を続けており、中でも「みやま小かぶ」というカブのタネは、昭和30年代を通じて固定種時代の最高峰と自負していました。日本種苗協会が主催する全国原種審査会の「金町小かぶの部」では常に上位に入賞し続け、一等特別賞の農林大臣賞を何度も受賞していたのです。それが昭和40年代以後、F1時代の到来とともに、まったく売れなくなってしまいました。当時のF1カブは、日本の金町系小カブ(うちから出たみやま小かぶからの取り返しが多かったと思われる)とヨーロッパの家畜用カブとの雑種ばかりだったので、「生育早く、小カブだけでなく中カブ、大カブになっても形が崩れないので、市場の相場が高い時にいつでも出荷できる」というキャッチフレーズと裏腹に、味は最悪でした。今でもたいして良くなっておりませんが……。
 横道が長くなってしまいますが、私が最初に実家に戻った時、父は「これからはF1の時代だ。うまいF1のみやま小カブを作れ」と言って、私をF1カブの大手種苗業者の農場に研修生として修行に出しました。そこで私が見たのは、菜の花ざかりの春、虫が入れないように密閉されたビニールハウスの中で、毎日蕾受粉をくりかえすおびただしい数のパート主婦の姿でした。頭に手ぬぐいを被り、割烹着を着た近くの新興住宅地の若奥さんたちが、黄色い菜の花の小さな蕾をピンセットで開き、開花した菜の花を取って、来る日も来る日も同じ株の花粉を付け続けていたのです。何と何を組み合わせればどんなカブが生まれるかわかっても、販売種子を生み出すF1の片親を維持するだけで、毎年この気の遠くなるような作業が必要だったのです。この人件費だけで、どれだけの資本が必要なのでしょう。
「うちみたいな零細タネ屋が手を出せる世界ではない」ことがよくわかりました。こうして全ての産業同様、種苗業界も、資本力のある大手の寡占化がどんどん進行していったのです。
 手先の器用な主婦による蕾受粉という方法でF1種の原種維持が可能になったアブラナ科野菜の「自家不和合性利用」は、まさに日本のお家芸といってもよい画期的な技術でした。この技術によって農業大国アメリカのブロッコリーは、瞬く間に日本のF1ブロッコリー種子に占領されてしまいました。それまでの揃いが悪い固定種ブロッコリーは、商品価値を失ってしまったのです。アメリカはブロッコリー王国ですから、ブロッコリー種子を採種していた種苗会社がたくさんあったはずです。それらの会社が採種していた大量のブロッコリー種子は、いったいどうなってしまったのでしょう。数年前、みのもんたの番組で「ブロッコリー・スプラウトが癌に効く」と取り上げられ、お客がブロッコリーのタネを買いに全国のタネ屋に殺到した時、スプラウトに向かない薬剤処理された日本のF1ブロッコリー種子を抱えながら、「これが答えか」と思い当たったタネ屋が、日本中にたくさんあったことでしょう。
「自家不和合性利用」という日本生まれのF1技術によって、日本のF1ブロッコリー種子はアメリカを支配しましたが、実はブロッコリーとカリフラワー以外には、日本のF1種子は、欧米にほとんど広まりませんでした。なぜなら、欧米には、菜の花が咲くアブラナ科野菜が、ほとんど無かったのです。
 試みに「菜の花」を和英辞書で引いてみてください。「rape blossoms」または「rape flowers」と出ますね。カブのイタリア語(ラテン語)が「Rapa(ラパ)」ですから、たぶんそこから派生した英語でしょうが、なんという恐ろしい名前でしょう。ここには菜の花の持つ牧歌的な響きが感じられません。欧米にはハクサイもコマツナも、我々日本人が万葉の昔から親しんできた「菜」そのものが無いのです。かろうじてカブだけがありますが、カトリック教会が支配したヨーロッパでは、カブやダイコンのような根菜類は人間の食べるものでなく、家畜や農奴が食べるものとして長い間差別されてきたのです。従ってカブから進化したナッパもハクサイもヨーロッパでは生まれず、ダイコンもハツカダイコン以上には大きくなりませんでした。ヨーロッパ人が移住して作った国であるアメリカでも、食べ物としてなじみのない野菜のタネが売れないのは、当然の話なのです。

 日本でアブラナ科野菜のF1技術が生まれた頃、アメリカでは「雄性不稔」利用技術が誕生しました。その最初は、タマネギにおける「雄性不稔株」の発見でした。1929(昭和4)年、カリフォルニア州の農業試験場で、赤タマネギの中に、花粉が出ない異常な花を持つ個体が見つかったのです。
 タマネギなどユリ科の作物は球根や子球による栄養繁殖でも育ちますから、そうした方法でこの異常個体を増やしながら、品種改良に生かす方法を試行錯誤し続けました。その結果わかったのは、花粉を持たない雄性不稔株は、他の健康な株の花粉でタネが実るが、実ったタネは全て母親譲りの雄性不稔になるということでした。これは大発見でした。
 赤タマネギはタマネギの中ではマイナーな作物ですから、まずメジャーな黄色のタマネギにしなければなりません。そのために黄タマネギの花粉をかけると、受精した胚は減数分裂して赤50%対黄50%の合いの子になります。この子は母親譲りの雄性不稔ですから花粉を持ちません。そこでまた健康な黄タマネギの花粉をかけます。すると赤25%対黄75%の雄性不稔個体ができます。これを5、6回くり返して、ついに雄性不稔の黄タマネギを誕生させたのです。(他品種から必要な性質を取り込むこの方法を、バッククロスまたは戻し交配といいます)
 こうしてできた黄タマネギは花粉を持ちませんから、ヘテロシスを発現できるほど遺伝的に遠い系統の健康な黄タマネギを花粉親としてそばに植えておけば、除雄も自家不和合性も必要とせず、効率的にF1タマネギのタネが採種できるというわけです。こうしてできた最初のF1タマネギのタネが販売されたのは、第二次大戦もたけなわの1944年のことでした。以後、このたった一個の赤タマネギから見つかった雄性不稔因子は、どんどん増殖され、世界中のF1タマネギの母親株として受け継がれていきます。
 タマネギで雄性不稔株が見つかったのなら、他の植物でも見つかるだろう。それがよりメジャーな作物なら、開発した種苗会社の利益は莫大なものになる。アメリカ人がこう考えるのは当然です。こうして次にトウモロコシで雄性不稔株が見つかりました。それまで、トウモロコシのF1作りは、除雄作業によって行っていました。トウモロコシの花が咲く頃、全米から大量の学生アルバイトを動員して、トウモロコシのてっぺんに出る雄花をカットしていたのです。雄花を除去されたトウモロコシは、風媒花ですから隣の畑に植えられた他品種の花粉で雑種のタネを結びます。こうして得られたF1トウモロコシのタネは、ヘテロシスの力で収量が増大しました。アメリカ国内だけでは消費できず、全世界の家畜の飼料として輸出され、第二次世界大戦で勝利したアメリカの国力の源泉となったそうです。
 トウモロコシで見つかった雄性不稔株が増殖され、除雄に代わってF1作りに利用されるようになるのは1950年代で、それほどの年月はかかりませんでした。ところが、とんでもない落とし穴がありました。このたった一株から増やされた雄性不稔のトウモロコシは、ごま葉枯れ病という病気に対する抵抗性をまったく持っていなかったのです。そのため、1969〜70年に全米でごま葉枯れ病が大流行した時、全米のトウモロコシが壊滅的な凶作に陥ってしまいました。しかたなくそれからしばらくの間学生アルバイトの大動員による人力除雄作業が復活したそうです。(その後別系統の雄性不稔株が数個体見つかり、現在のF1トウモロコシはそれらの子孫に変わりました)
 アメリカで生まれた雄性不稔株利用というF1技術は、タマネギ、トウモロコシのほか、ニンジン、テンサイ(サトウダイコン・シュガービート)などで実用化されました。現在日本で販売されているタマネギ、トウモロコシ、ニンジンは、すべてアメリカ生まれの雄性不稔個体の子孫であり、北海道のテンサイから搾られた砂糖も、すべてこれら雄性不稔株の子孫の産物です。
 戦後日本に導入された雄性不稔株利用というF1育種技術は、日本独自の野菜であるネギで雄性不稔株が見つかってまず応用され、その後、ダイコンで見つかった雄性不稔因子は、さまざまなアブラナ科野菜に取り込まれ、かつての自家不和合性利用に代わって、F1育種のグローバルスタンダードになりつつあります。
 自然界なら生まれてもすぐ淘汰され消え去ってしまうはずの「花粉を作れない個体」だけが増やされ、その子孫だけが市場やスーパーに溢れている大衆消費社会とは、いったい何なんでしょう。

 ここで視点を変え、雄性不稔がなぜ生まれるか、なぜ母親株から子に引き継がれるのか考えてみましょう。それには地球上の生命の誕生から考察しなければなりません。
 地球が誕生したのは約46億年前。そして生命が誕生したのは約35億年前と言われています。最初に誕生した生命は、単細胞の細菌でした。
 細菌は分裂して増殖するだけの微細な生き物ですが、やがて呼吸してエネルギーを出す細菌が生まれてきます。するとこれを取り込んで共生する細菌が出てきました。これが、動植物はじめ、すべての多細胞生物の祖先になります。取り込んだほうの細菌は、取り込まれた細菌からエネルギーを受け取り、より複雑な生命に進化していきます。取り込まれた方の細菌は、細胞内のミトコンドリアという小器官になって、細胞の進化を助けます。(最近の新聞報道によると、多細胞生物の細胞分裂は、ミトコンドリアが出す信号によって操られているのだそうです。2009/2/7:注)ただ、もともと別の細菌ですから、それぞれが別の遺伝子を持っていました。これはその後十数億年たった現在も変わっていません。
 エネルギー供給源であるミトコンドリアは、呼吸作用で酸素エネルギーを細胞に供給するとともに、傷ついたり老化したりすると活性酸素(フリーラジカル)を出して、細胞や遺伝子を傷つけます。取り込んだほうの細胞は遺伝子を守る核膜を発達させて活性酸素の攻撃から遺伝子を守りますが、ミトコンドリアの遺伝子は裸なので、自分の出す活性酸素によって傷つき、変化します。このミトコンドリア遺伝子の変化が、植物の雄性不稔や動物の無精子症の原因であることが、最近の筑波大学の研究でわかってきました。つまり、ミトコンドリアが健全に機能していれば雄性不稔とか無精子症という異常は起こらないのです。
 次に、なぜ雄性不稔は、母親からすべての子に受け継がれるのでしょう。
 人間の卵子の中には、約10万個のミトコンドリアがあるそうです。それに比較して1個の精子のミトコンドリアは、大きさも違いますが、100個もありません。わずか1000分の1ですから、受け入れてもたいして影響なさそうに思いますが、受精の瞬間、卵子は精子のミトコンドリア部分(しっぽの付根)を切り落としてしまいます。もし間違って付根ごと卵子に入った精子のミトコンドリアは、受精から1日ぐらいのまだ細胞分裂が始まる前に、すべて見つけられて潰されてしまうんだそうです。思うに、激しい運動で卵子にたどり着いた精子のミトコンドリアは、遺伝子が損傷していることが多いため、健全な子孫を遺す障害になるのでしょう。そして、これは動物も植物も同様で、植物の生殖細胞で生まれるミトコンドリアの中には、花粉の一員になるのを嫌がる動きをするものがあるそうです。受精の後で消滅させられるのはまっぴらごめんということでしょうか。
 こうして、植物も動物も母親のミトコンドリアしか引き継ぎませんから、ミトコンドリア遺伝子の現す性質も、母親同様になります。母親が雄性不稔なら、子も雄性不稔というわけです。(動物の場合、親が無精子症でもその子は無精子症ではありません。父親の性質ですし、何より子ができないわけですから)
 雄性不稔株さえ見つければ、異品種の花粉で受精したすべての一代目の子がF1になり、均一な野菜になるという育種技術の導入は、日本のF1育種の根底を変えてしまいました。 品種改良の原点が、雄性不稔株探しや、雄性不稔因子の導入から始まる時代がやってきたのです。
 小瀬菜大根という東北の葉大根で見つかった雄性不稔因子は、最近のF1青首ダイコンの新品種はもとより、バッククロス(戻し交配)によってハクサイやキャベツやカブに取り込まれ、雄性不稔のハクサイやキャベツやカブに生まれ変わっています。
 最近、この話を某国立大学でバイオテクノロジーをやっていたという農学博士に話したところ、「だって、ゲノムが違うじゃありませんか」とびっくりされていました。遺伝子が違う植物が受精できるはずがないと思っておられたようです。
「二酸化炭素ガスを使うんだそうです。ハウスの中の二酸化炭素濃度を上げてやると、植物の生理が狂って、染色体数が違う異品種でも、受精してしまうんだそうです」
 この技術には伏線がありました。「自家不和合性」育種の蕾受粉の現場を見た私は、「これは零細タネ屋の太刀打ちできる世界じゃない」と諦めて、F1種作りという分不相応な育種に手を出さなかったわけですが、1、2年前、ある種苗会社のセールスマンにその話をしたところ、「もう蕾受粉なんてどこもやっていませんよ。10年ぐらい前から二酸化炭素です」と、言われてしまったのです。
 セールスマンが帰った後、あわてて『ハイテクによる野菜の採種』(蔬菜種子生産協議会編・誠文堂新光社1988年刊)という本を開いたところ、なるほど「原種生産におけるCO2の理論と実際」という項目が載っていました。それによると、ハウス内の二酸化炭素濃度を3〜5%程度に高めると、成熟した菜の花でも自家受粉してタネをつけてしまうのだそうです(現在の大気中の二酸化炭素濃度は0.037%。これまでの地球の歴史上でも0.6〜0.04%程度での変動であり、ハウス内の濃度は非常に濃い。人間は酸欠で中にいられないが、ヘモグロビンを持たないミツバチは、そんな中で平気で交配作業をするという)。
 それを知って、ダイコンの雄性不稔因子を、染色体数の違うハクサイやキャベツに取り込むと知った時、「やはり二酸化炭素を使うの?」と、技術にも詳しい某大手種苗会社の営業マンに聞いたところ、
「もちろんそうです。ハウスに雄性不稔の小瀬菜大根と、今まで自家不和合性でF1を作っていた時の母親株を育てます。ダイコンは雄性不稔で自分の花粉を持ちませんから、健康なキャベツの花粉で子供を作りたい。いっしょに開花した時にミツバチを放し二酸化炭素濃度を上げてやると、ゲノムの違うキャベツの花粉で子供を作ってしまうのです。こうした戻し交配を何年もくり返すことで、ダイコンの雄性不稔因子を取り込んだF1キャベツの母親株ができます。後は以前から持っていた父親株をそばに植えておくだけで、自家不和合性時代と同じ売れ筋のF1キャベツのタネが大量に採種できるわけです」
 なるほど。核になる技術は違っても、以前と同じようなF1キャベツのタネが販売できるというわけか。ただ唯一決定的な違いは、このF1キャベツの母親から生まれた子供のキャベツは、みんな雄性不稔だから、花粉が異常で自分の子孫を増やすことができないというだけ……。
「でもね」彼は続けます。
「核の中の遺伝子が、この細胞質(の中のミトコンドリア)遺伝子を修復しようとすることがあるんですよ。たまに修復に成功してしまうことがあって、そういう個体は花粉を生成してしまう。こんなタネが混じったら均一なF1として売れませんから、こういうのは『シブが出た』と言って、畑全部の母親株に触って花粉が出ている株を注意深く全部除去するんです。これが本当に大変な作業で、シブの出やすい母親株を使った新品種は、どんな売れそうな画期的なF1品種でも、技術と営業主体の社内会議の時に、生産を担当する部長は、『売れなくていい。注文なんか取って来なくていい』と、隅っこで一人でぶつぶつつぶやいています」
 これには大笑いでしたが、健康を取り戻そうとする野菜を排除して不健康な野菜を商品として送り出さなくてはいけない種苗業というのは、どこか間違っているのではないかと深く考えさせられる言葉でした。

 ところで、健康な植物に不健康な遺伝子を取り込むというと、誰でも遺伝子組み換えという言葉が思い浮かぶのではないでしょうか。
 雄性不稔は、二酸化炭素の力を借りてでも行う「近縁の植物同士による遺伝子の取り込み」です。しかし遺伝子組み換えは、ミトコンドリアを持つ多細胞の高等植物に、土壌細菌など単純な仕組みの原始生命の遺伝子を取り込みます。
 遺伝子組み換え産業の利益の代弁者は、「遺伝子組み換えは伝統的育種法とまったく変わらない。伝統的育種法では、思いもよらない遺伝子まで取り込んでしまう危険性があるが、遺伝子組み換えは、除草剤耐性や殺虫毒素など決められた遺伝子しか取り込まないから、より安全性が高いのだ」と、よく言います。果たしてそうでしょうか。
 確かに戻し交配による雄性不稔因子の取り込みは、雄性不稔因子以外の別の遺伝子も取り込んでしまっているでしょう。でもそれは、本来近縁の植物が持っていた遺伝子で、細菌やカビが持っていた遺伝子を組み込むこととは本質的に違うはずです。
 細菌の毒性遺伝子を組み込まれた植物がその後どのように進化し、遺伝子が変化した花粉が、今後どのように地球環境を変化させていくか、誰にもわからないのです。幸い雄性不稔植物は、花粉が出ませんから、周囲の近縁種を汚染しません。衣服が汚れないと、花粉が出ないことを売り物にしているF1ヒマワリが人気を博していたり、花粉症予防のために雄性不稔のスギを植えようという動きさえあるくらいです。
(雄性不稔は無精子症だから、そんな野菜ばかり食べていたら少子化が進むばかりではないか? とか、野菜を食べると活性酸素を防いで癌予防になるというけれど、そのために最も使われているタマネギやニンジンが、自分の出す活性酸素でミトコンドリア遺伝子が傷ついた雄性不稔個体なのだから、効果なんかあるんだろうか? というしごく素朴な疑問も浮かびますが、このへんはまだ誰も検証していないので、ここでは不問にしておきます)
 対して遺伝子組み換え作物は、アメリカ政府の保護政策のおかげもあって、年々その版図を広げています。組み換えられた遺伝子は、細胞の一つ一つ、微細な花粉の一つ一つに組み込まれて、地球環境を汚染し続けています。2007年に発表された数字では、遺伝子組み換え作物の栽培面積は、1億1430万ヘクタールになったそうです。これは日本の国土の3倍以上ですが、花粉が飛散している面積は、この作付け面積の数百倍におよぶでしょう。

 現在封印されている遺伝子組み換え特許に、ターミネーター・テクノロジーというものがあります。米国特許572376号を取得した時のアメリカ種苗業界の雑誌『Seed & Crops』誌によると、この技術は「遺伝子操作により、種子の次世代以降の発芽を抑える技術で、これにより農家による自家採種を不可能とするものである」と定義されています。
 そして、植物の種子が発芽する際に、組み込まれた遺伝子が毒素を発生して植物を死滅させるこの特許は「全ての植物種をカバーし、遺伝子組み換えによってできた植物のみならず、通常の育種方法によってできた植物も特許の領域(スコープ)に含まれる」としています(邦訳は日本種苗協会の機関誌『種苗界』1998年8月号による)。
 この特許をアメリカ農務省と共同開発したミズーリ州の小さな綿花の種子会社デルタ&パインランド社は、1999年モンサント社に18億ドルで買収されました。しかし「一社による農業支配」と反対されたモンサントは、同年10月に開発計画の凍結を発表しましたが、その後同様の特許は、スイスのシンジェンタやノバルティスなどのバイオメジャーからも申請されており、試験栽培が続けられています。2006年にはアメリカ政府とバイオメジャーの支援を受けた国々により、国連生物多様性条約会議の席上で使用を目的としたケースバイケース条項締結の動きもありましたが、否決されています。しかし今後も使用に向けての圧力が高まるのは間違いないでしょう。なにしろサブプライム問題で金融支配戦略が破綻したアメリカにとって、残る世界支配の”タネ”は、知的所有権である特許による”種子支配”しかないのですから。
 タミネーター種子が解禁されたらどうなるでしょう。まず飛散した花粉と交雑可能なさまざまな栽培植物のタネが、芽を出せず死んでしまいます。また、組み換えられた遺伝子の根毛細胞は、近くの土壌細菌アグロバクテリウム(根頭癌腫病菌)とプラスミド遺伝子を交換し合い(遺伝子の水平移動)、土壌細菌に移ったターミネーター遺伝子は、ありとあらゆる種子植物にとりつき、自殺花粉を世界中に撒き散らしてしまうでしょう。植物の死は、動物の死と直結しています。一時しのぎの経済戦略が、地上を死の世界に変えてしまう危険性を秘めているのです。

 一粒のナッパのタネは、1年後に約1万粒に増えます。2年後はその1万倍で1億粒。3年後には一兆粒。4年後はなんと1京粒です。サブプライム問題を発端とした金融バブルで、世界全体のGDP5000兆円を上回る4京円の証券を発行してしまったなどと天文学的数字に世界が驚いていますが、健康な一粒のタネは、こんな宇宙規模に匹敵する生命力を秘めているのです。
 これからの農業は、一粒のタネから生まれた収穫物の価値を金に換算する前に、一粒のタネが持っている無限大の生命力の前に、いったんひれふすことから始めるべきではないでしょうか。[2008/11/25記]


〒357-0067 埼玉県飯能市小瀬戸192-1 野口のタネ/野口種苗研究所 野口 勲
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