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ミトコンドリアと蜂群崩壊症候群/野口 勲(山崎農業研究所「耕」134号)

 みなさんは、ミトコンドリアをご存知でしょうか?
 細菌(バクテリア)以外のあらゆる生物の細胞の中に存在している小器官です。
 砂粒1個の中に一億個入るというくらい目に見えないミクロな大きさですが、我々人間の1個の細胞の中に数百から数千ずつ存在し、人体を構成する60兆の細胞の中にあるミトコンドリアをすべて集めると、総数は京の単位となり、体重の一割を占める。と、いわれています。
 この膨大なミトコンドリアは、呼吸で取り込んだ酸素や、食べ物から摂取した糖類を材料に、ATP(adenosine triphosphate=アデノシン三リン酸)という生命エネルギーを生産する発電機の役目をしています。つまりミトコンドリアが作ったエネルギーによって、生物はみんな生かされているのです。
 ミトコンドリアは、エネルギーを生産する過程の中で、活性酸素も生成します。活性酸素は、体内に侵入した有害な細菌やウイルスを攻撃して死滅させるなど、免疫機能にとって重要な役割を果たしていますが、ミトコンドリアが老化して制御不能になると、自己の細胞や遺伝子を傷つけ、糖尿病やアルツハイマー病などの原因を作るといわれています。
 また代謝の過程で不要になった細胞に自死をもたらすアポト−シスも、ミトコンドリアの重要な役目ですが、この機能が低下すると不要細胞を分解することができなくなり、癌細胞に変化させてしまう要因になります。ミトコンドリアを健康に保つのが長寿の秘訣といわれる由縁です。
 ミトコンドリアは、独自の遺伝子(DNA)を持っています。この遺伝子は、両親から一組ずつもらう細胞核の中の遺伝子と違い、母親の遺伝子だけが子供に伝わる母系遺伝によって子供に受け継がれます。もし母親のミトコンドリア遺伝子が異常になると、その子孫の遺伝子もすべて異常になります。
 ミトコンドリアの遺伝子が異常になると起こるのが、無精子症です。動物の場合、無精子症の男性は子供を作れませんから、その血筋は、その男子で絶えます。
 しかし植物は、多くが雌雄同体ですから、雄しべが異常で子供を作れなくても、雌しべが正常なら、他の個体の花粉で子供を作れます。しかし生まれた子供は、すべて母系遺伝によって雄しべが異常です。このような男性機能を失った植物のことを「雄性不稔(male sterility)」といいます。
 雄性不稔の植物には花粉がありませんから、他品種の花粉を付けてF1(first filial generation=一代雑種)を作るのに好都合です。ですから現在、多くのF1品種が、雄性不稔系統を母親にして誕生しています。
 スーパーで買った玉葱や人参、大根、白菜、キャベツ、ブロッコリーなどを、全部食べてしまわずに、その一つを庭かプランターに植えてみて下さい。冬が過ぎ春が来ると、その野菜は花を咲かせます。その花を虫眼鏡で見ると、高い確率で雄しべのない花が観察できます。これらは生命力の根幹であるミトコンドリアの遺伝子が異常になって、男性機能を失った、自分では子孫を作ることができない植物なのです。
 野菜だけでなく、米やトウモロコシなどの穀類、砂糖の原料の甜菜など、さまざまな食品でミトコンドリア異常の雄性不稔F1品種が増え続けています。現代の品種改良にとって雄性不稔は、遺伝子組み換えと双璧をなす基本技術です。

 子孫を作れないというのは、生命にとって致命的な欠陥です。無精子症や雄性不稔の最初の個体は、なぜ生まれるのでしょう?
「雄しべを抜く必要がなくて交配に便利だから、原因なんかどうでもいいじゃないか」と、原因不明のまま雄性不稔植物は増え続けています。でも原因のない結果はありませんから、なんらかの原因があるはずです。参考になりそうな一つのケースを持って、ある日、某農大の育種学研究室の先生が、私の店にいらっしゃいました。
「お宅にあるアブラナ科野菜のタネを、一つ残らず全種類売って下さい」と。
 八月だったので、各地の固定種・在来種の秋まき野菜のタネが入荷しています。日本の秋冬野菜は、大部分がアブラナ科ですから、うちにある全種類というと大変な数になります。まだ袋詰めできていない品種もあったので、スタッフに揃えてもらう間、お茶を入れてお話をお聞きしました。
「なんのために必要なのですか?」
「うちの研究室の院生が、ある固定種のカブを自家受粉を数代繰り返して純系にしたところ、ある一定の割合で雄性不稔株が出現したのです」
「自家受粉ということは、つぼみ受粉ですね?」
「もちろん、そうです」
 アブラナ科野菜には自家不和合性という、自分の花粉を嫌がる性質があり、開花した菜の花は、自分の花粉でタネを結ぶことができません。しかしまだ幼いつぼみの時は、この性質が働かないので、胚が自分の花粉で受精します。これによって、雌しべの遺伝子も、雄しべの遺伝子も同じという、まるでクローンのような純系のタネが実ります。つぼみ受粉で実ったタネは、全部同じ遺伝子の同一個体同士ですから、畑にたくさんタネを蒔いても、集団全部に自家不和合性が働いて、タネが実りません。しかし自家不和合性を発現した異なる品種を近くに植えておけば、異品種間のF1のタネがたくさん実ります。こうして日本の種苗メーカーは、販売用の一代雑種のタネを収穫してきました。しかし、海外採種が多くなると、日本独自のガラパゴス技術といっていい「自家不和合性利用技術によるF1採種」は、海外の採種業者に嫌われて、欧米の主流である雄性不稔利用技術に切り替える必要が出てきました。母親系統を、自分の花粉では受精しない自家不和合性系統から、花粉そのものができない雄性不稔系統に変える必要性が生まれたのです。
「カブだけでなく、すべてのアブラナ科野菜でつぼみ受粉を繰り返し、雄性不稔を出現させる法則が見つかれば大発見です。それを調べるために、全国の在来種を揃えているお宅に、購入しに来たのです」
 なるほど。
 異品種同士を掛け合わせてF1にすると、子供には両親の対立遺伝子の中の優性形質だけが現れて、均一な形状になるとともに、雑種強勢(ヘテロシス)が働いて、それぞれの両親より生育が早まったり、収穫量が増大したりします。生産者に大きな利益をもたらすF1技術ですが、種苗メーカーの生産部門にとっては、薄氷を渡るような不安を抱えた技術だと聞いたことがあります。それは、つぼみ受粉を繰り返して、ひたすら純系にされた植物は、多様性を失うとともに、雑種強勢のアンチテーゼである自殖弱勢を起こしていて生命力が衰えており、死なずに芽生えるタネを何十年も維持するのがとても大変だという話でした。
 つまりこの、つぼみ受粉を繰り返して雄性不稔を発現したというカブも、生命力が衰えた結果、ミトコンドリア遺伝子に異常が発生し、子孫を作る能力がなくなってしまったのでしょう。生命力の根幹であるミトコンドリアは、雄性不稔という現象を発現して、種としての未来を失ったことを表しているのではないでしょうか。
 いったん誕生した雄性不稔個体は、F1の母親に使われて、子孫を作れない、未来のない植物が増殖されて市場に増え続け、人間はそればかりを食べる社会になっています。食べ物は腸でアミノ酸に分解され、血流に乗って細胞に運ばれて体を作るとともに、腸が変化した卵巣や精巣という生殖器官の中で子孫を作る原料にされます。子孫を作れないミトコンドリア異常の植物ばかり食べていて、我々動物のミトコンドリアは、異常にならないのでしょうか?
「アブラナ科野菜の雄性不稔発現技術を見つけたかもしれない」と、とくとくと語られる先生に、私はかねてから危惧しているミツバチの失踪事件に対する仮説を話しました。

 ミツバチ大量死の問題は、日本やヨーロッパでは、ネオニコチノイド系農薬が原因という説が、ほぼ定説となっているようです。NHKTVの「クローズアップ現代」を観ると、巣箱のまわりにミツバチの死骸がうずたかく積もっていて、養蜂家がそれらを両手ですくい上げていました。確かにこれらは「大量死事件」で、原因はたぶんネオニコチノイド農薬なのでしょう。しかし騒ぎの発端のアメリカで起きた「蜂群崩壊症候群(CCD=Colony Collapse Disorder)」は、2007年2月の時事通信による最初の報道では「イナイイナイ病(disappearing-disappearing illness)」と名付けられていました。「前日まで大量にいたミツバチがある日突然女王蜂と数匹のハチを残して忽然と消えてしまう」という事件でした。「巣の外で大量死したのではないかと見られているが、巣の周りに大量のミツバチの死骸があるわけでもなく、いまだはっきりした原因は分っていない」と、続いています。つまり大量の死骸がある日本の事件とは、まったく違う事件なのです。ミツバチに関する日本の権威である玉川大学の吉田忠晴教授も「(CCDは)日本では起きていない」と、はっきり言っています。(「kotoba」2010.9月創刊号の福岡伸一氏との対談より)
 吉田教授によると「アメリカでは2006年冬からと2007年冬からの二年連続でCCDが発生し、それぞれ全米に240万群もいるミツバチの三割以上が失われた」そうです。(前掲書)二年連続で80万の巣箱から働きバチがいなくなり、その後はこんな大規模な失踪は起こっていない。と、読み取れます。また、アメリカのCCDを扱ったドキュメンタリー映画「Colony(2009)」の中では、養蜂家で生物学者のランディ・オリバー(Randy Oliver)氏が「CCDと似た現象は、約20年ごとに繰り返し起きている」と語っています。2007年の時事通信による最初の報道でも、「1960年代にも同様の現象が起こったことがあるらしい」と、養蜂家の間で語り伝えられていたであろう伝承を伝えていました。つまり、1960年代から約20年ごとに起こるという周期性があるのです。周期があるということは、いまだに主因不明といわれるCCDと、ミツバチの生態との間に、特定の原因があるということではないでしょうか。少なくとも1990年代から販売開始されたネオニコチノイド系農薬が20年周期を生んでいないことは間違いありません。そしてCCD(と似た事件)が最初に起こった1960年代というのは、雄性不稔のF1タマネギ種子が販売開始された1940年代から約20年後なのです。
 ミツバチの一生は、働きバチと雄バチは一年ですが、女王蜂は二年生きます。そして二年目に次の世代を託す女王蜂と雄バチを生みます。この時女王蜂が産んだ卵の中の無精卵が雄バチになります。つまり雄バチが持つ遺伝子は、母系遺伝によるミトコンドリア遺伝子だけでなく、細胞核の中の遺伝子も、女王蜂から受け継いだ一組の染色体しか持っていません。女王蜂の遺伝子は雄バチに凝縮して受け継がれます。
 20年周期というのは、20年間、代々の女王蜂に蓄積された「何か」が作用して、10世代目の女王蜂が生んだ雄ハチが、無精子症になって生まれたのではないか。オカマの雄バチの誕生に驚いた数万の働きバチたちが、コロニーに未来が無いことを悟り、未来のない巣箱を見捨てて虚空に飛び去ったのではないか。というのが、CCDに関する私の仮説です。
「近年、女王蜂の自然受精率が減っていて、玉川大学では雄バチの精子を人工受精して産卵率を上げているそうです。これも、雄性不稔植物の蜜が、雄バチを無精子症にしている傍証。ということも、考えられませんか?」と言うと、農大の先生は、
「もしかすると、そんなことがあるのかもしれない。しかし、それを認めたら、現代の育種学が崩壊してしまう」と、首をひねりながら、準備ができたたくさんタネ袋を抱えて、お帰りになりました。

 最近の海外報道によると、ホワイトハウスが、10月からの新年度国家予算を使って、CCDの徹底調査を複数省庁に命令したそうです。
 2006年と2007年に起こった事件を、8年後の2015年度予算でいまさら調査する理由がよくわかりませんが、きっと何か新しい知見があったのでしょう。
 今年五月に雑誌の対談でお会いした安倍昭恵総理夫人に、著書『タネが危ない』を進呈した際も申しましたが、これまでの農薬や、ダニや、ウイルスや、細菌や、電磁波や、単一作物ストレス説に加えて、雄性不稔植物の交配に使われているおびただしい数のミツバチのミトコンドリア遺伝子の変化も、この際調査対象に加えて頂けるといいのですが、さてどんな結果が発表されることになるのでしょうか?
[2014.11.21]